「毎日生きている事が幸せ」と語る名曲米の作り手〜土屋幸男〜
長野県佐久市望月は、農業が盛んな地域なので軽トラが走っているのを見かける事は珍しくはありませんが、そんな中でも、田んぼに音楽を流すためスピーカーをつけている一際目立つ軽トラがあります。
この軽トラの持ち主は土屋農園の代表である土屋 幸男さんで、
自ら生み出した「EM音楽農法」という独自の方法でお米を育てています。
(年齢は84歳ですが、現役バリバリのお米農家です。)
そんな土屋幸男さんは自分の人生を通して、どんな事を語ってくれるのでしょうか?
名曲米について
ーー名曲米とは?
名曲米は名曲を田んぼに聞かせながら育てたお米の事です。
私の軽トラについているスピーカーも田んぼに音楽を聞かせるためについています。
名曲米の基本は土に音楽を聞かせる事です。
私の「EM音楽農法」というと、みなさん稲に音楽を聞かせていると勘違いするのですが、
土の中にいる微生物などに音楽を聞かせています。それによって土の質がよくなって結果として質の良い稲を作る事ができます。
ーー名曲米の味はどんな味ですか?
科学的に証明される数値を調べた事はないけども(笑)。
食べた人が、美味しい!これはいい米だ!と言ってくれれば私はそれでいいんです。
本当は科学的に、どんな音楽を聞かせるとどんなお米ができるかを研究すれば一番いいんですけどね。。
名曲米の名前の由来
音楽を田んぼに聞かせて米を作り始めたときに、お米の名前を何にしようか迷っていたんです。
そんな時に、近所の温泉で仲良くなった人が、一緒に名前を考えてくれる事になり、「名曲米」はどうだと案を出してくれまして、気に入ったのでそれに決めました。
土屋幸男さんの人生
ーー生まれた場所はどこですか?
長野県佐久市望月の協和と言う地域です。
ーー小学校・中学校時代はどんな子供でしたか?
学校ではよく先生に殴られていました(笑)。
んー、あとは人のためになる事は常に考えていましたね。
こんな事を覚えています。
私が小学生の頃は、クラス対抗の野球大会がありました。
今で言う「クラスマッチ」ですね。私がいたクラスは物凄く強くていつも優勝していました。
そのせいか、先生が私たちの体育の授業だけ野球をやらせてくれなかったんですよ。
他のクラスはみんな授業で野球の練習をしているのにね。
それが気に食わなくて、私は先生に文句を言ってやったんです!
「なんで俺たちだけ野球をやらせないんだ!」
そう言ったら、先生はバットを持って追いかけてきましたね(笑)。
今でも覚えています。
家では、
「自分は必要とされていない子供なんだ」という事を感じていました。
親父には
「お前は必要ないから、中学を卒業したら家から出ていけ」
なんて事も言われていました。
私は4男なので跡取りにもなれないしね。
小学校の修学旅行も兄は行かせてもらえたのに、私は行かせてもらえませんでした。
ーー中学校を卒業したあとは、何をしていましたか?
さっきも行った通り、親父に出ていけと言われていたので、15歳の中学卒業と同時に20年近く過ごす事になる東京に働きに出ていました。
東京に行ってから最初は、衣類のシャツなんかを作る工場で働いて、その後は電気屋で働いていました。
そのころはとにかく働いていました。昼間は正社員で働いて、夜はアルバイトの仕事なんかしてたかな。
物欲とかがあるわけではなかったですが、若い頃はお酒を飲み歩いていました。
山手線を一周した事もあるくらい、遊び歩いていました。楽しかったですね(笑)。
ーー中学校卒業後に一人で東京に行くのは寂しくなかったですか?
寂しくはなかったですね。
地元の友達と3~4人で一緒に行ったのでね。
ただ、そのうち一人は寂しくてその日に帰っていました。
まだ15歳の時ですから、今じゃ考えられないでしょう。
ーー東京にいた頃には夢はありましたか?
夢はありませんでした。
時代のせいにしたくはないですが、その頃は夢なんて持つような時代じゃなかったような気がします。
ーー東京と長野にはどんな違いを感じましたか?
長野県人はとにかく理屈っぽいです。
何か新しい事を始めようとしても、理屈で否定される事が多い気がします。素直じゃないですね。
そういう私も長野県人なのですが(笑)。
東京だと誰が何をしようが、関係ないって感じですね。
もっとも私がいたのが40~50年も前なので今はどうかはわかりません
土屋さんへの質問コーナー
ーー人生の中で一番嬉しかった事はなんですか?
名曲米を作った事によって注目されたのは嬉しかったですね。
そんな事は考えてもいなかったので。
ーー人生が変わった出来事はありますか?
東京から地元である長野に戻ってきた事ですね。
皮肉なものですが、私が東京にいる間に土屋家で色々あって、結局私が家を継ぐ事になったんです。
本当は家を継ぐつもりはなかったんです。
妻の家族にも反対されましたが、結果として長野に帰る事になりました。
それによって私の人生はすごく変わったと思っています。
ーー人生を変えてくれた人はいますか?
娘ですね。
娘が高校生の時に、親子関係がうまく行っていませんでした。
その頃にふと
「家族といえど、自分と娘は違う人間だ。だから私の思う通りにはならない」
と思うようになりました。
それからは、自分でも人間として一皮剥けましたね。
悩み事があっても、
「どんなに悩んでもしょうがない。物事はなるようにしかならない」
と思えるようになりました。
ーー人生の中で後悔した事はありますか?
ないです。
今になって自分の人生を振り返ってみても一切の悔いはありません。
一切の悔いがないというよりかは、そんな事も考えてもしょうがないので考えないですね。
ーー土屋さんにとって「幸せ」とはなんですか?
この世で生きている事ができて、毎日幸せです。
不幸なんて思った事がありません。
そんな事は考えないし、不幸なんて存在しないと思ってます!
ーーそれでも人間なので、嫌な事が起こる日はあると思います。そんな時はどうしますか?
一切ありません(笑)。
とにかく嫌な事は考えません。
自分でも不思議なくらいね。
まあだからこそ、こんなに元気で生きていられるとも思います。
アドバイスをするとしたら
「周りに起きる出来事は全ては起こるべくして起こった事。
そんな事にこだわらなくてもいい。
どんな事が起きようと、いつかは時が流し去ってくれます。
とにかく時を待つ事。
その瞬間に全てが解決なんてしないから、時を待ちなさい。
あとはネガティブな言葉を口にしない事。口にしても何も変わらないよ。」
と言います。
多分悩みすぎしてしまう人は、真剣に考えすぎだと思うんです。
人生相談なんかも良く受けますが、全ての物事はなるようにしかならないんです。
ーー今振り返ってみるとどんな人生でしたか?
「波乱万丈」でした。
今思うと今まで生きてきた全てが幸せで、嫌な事なんて一つもありませんでした。
それは自分が思うように生きてきたからですが、どんな時も黙ってついてきてくれた妻には感謝してもしきれません。
全ては妻のおかげです。
ーー土屋さんにとって仕事とは?
「遊び」ですよ。
それは「生きる」事も「働く」事も全て一緒です。
この年になってそう思うようになりました。
毎日朝起きては田んぼに遊びに行こう。畑に遊びに行こう。
そんな感じです。
ーー84歳になっても毎日働ける原動力はなんですか?
楽しいからです。
生きがいだからです。
若者に向けて
ーー「やりたい事がない」、「何をやったらいいのかわからない」と言う若者にはどんな言葉をかけますか?
やりたい事が見つかるのは、珍しい事だと思います。見つかってもそれが仕事になるかどうかは分かりません。
だからそれを探し続けるために
“就職”→”合わないからやめる”
を繰り返ようになると努力する事を忘れてしまうんです。
そうすると壁に当たるたびに
“自分に合っていないからやめる”
の連鎖に陥ってしまいます。
だからまずは壁に当たってもその壁を壊す努力をしてみた方がいいと思います。
壁は何回壊しても新しい壁が現れますが、壁は壊すたびに成長できます。
でも逃げても別の壁があるだけです。
私は壁を壊し続けた結果として、今は毎日が楽しいと思う事ができるようになりました。
参考にはならないかもしれませんが、一人の人生の先輩として聞いてもらえればと思います。
ーー最後にこの記事の読者に向けて送る言葉を教えてください。
「誠」です。
友達である永平寺の和尚さんにもらった言葉ですね。
若者のみなさんには誠を尽くして生きて欲しいです。
応援しています。
取材/土屋喬椰