小林じゅうたろうがこども食堂にかける思いとは?
長野県小諸市で「こどもたちの事だけしかやらない」を信念に市議会議員を務めながら、こもろ&みよたこども食堂での活動を行う小林じゅうたろうさん。(63)
小林さんは今でこそ強い信念を持って活動しているが、自身の10〜20代を、
「やりたい事も決まっておらず甘えて生きていた。」
と話している。
今回はそんな体験談と、小林さんがこども食堂にかける思いや始めた理由などをお話いただいた。
やりたい事が見つからず迷っていた若い頃
小さい頃からそうでしたが、自分のやりたい事がなかったので自分が将来何をするのか、何で生きていくのかが決まっていませんでした。
そんな理由から大学の進学の時も、理工学部、文学部、農学部、経済学部など様々な学部を受験しました。結果的には一浪して商学部に進学しました。
この経験があったので、今でも子供達には、
「将来自分が何で飯を食っていくのか?何の仕事をするのか?」は考えた方がいいよと伝えています。
ーー大学卒業後は何をされていたんですか?
大学卒業後は大学院に進んで、大学の時と同じ商学の勉強をしていました。
紆余曲折あり、26歳で大学院を卒業した後も自分の中でやりたい事や何をして生きていくのかが決まっていなかったので、正職に就く事はありませんでした。
予備校の講師や、コンピュータ専門学校の講師の助手なんかをやったりしていましたね。
初めての正社員での経験
30歳くらいになった頃に一旦地元である長野県に帰って、母の実家であるお菓子店で初めての正社員を経験しました(笑)。
この仕事もそんなに長くは続けてはいなくて、その後すぐに東京に戻って大学時代に勉強した事が活かせる証券会社でアナリストの仕事をしていましたね。
長男の出産、父親の手伝いもあり再び帰郷
証券会社で4年くらい働いた後に、長男の出産のタイミングと政治家でもあり家業の長でもあった父親の手伝いが必要になった事から35歳で再び長野県小諸市に帰郷しました。
ーー様々な仕事を経験された感想を教えていただきたいです!
そうですね。
予備校や専門学校のアルバイトも証券会社のアナリストも仕事自体は楽しくてやりがいはありましたし、経験した事全てが今の自分の役に立っていると思っています。
当時はやりたい事もなかったので、その仕事が将来役に立つかは分かりませんでしたが、結果的に全てが繋がりました。
シングルファーザーとして子育てを経験
地元に戻ってきたのですが、様々な事情がありシングルファーザーとして子供達を育てる事になりました
そんな理由から多くの家庭は母親が担う役割や酸っぱい経験もたくさんしてきました。
(小林さんの子育ての体験は、小林さんの著書「だから、こども食堂」に書かれています。今回は本の中の一部の文章を抜粋します。)」
母親のいない子どもにとっての「母の日」
母親のいない子どもにとっての「母の日」ほど、辛いものはない。「母の日」が近づくと、スーパーなど巷には、特別セールで「母の日」の文字が溢れる。
幼稚園や小学校低学年ならば、授業で先生が「母の日」に触れて「お母さんの顔の絵を描きましょう!」
母親のいない家庭、私は一年中で一番憂鬱な「母の日」を、ひたすらに「やり過ごした」。
子どもとスーパーに行って「母の日セール」などの垂れ幕がデカデカと飾ってあっても、何も言わず通り過ぎる。
子どもたちも、何も言わない・・・・・・。
私は「なんとかなった」と思い込んでいた。しかし・・・・・・。10年の時をへて「辛かった!」
「”母の日”ほど辛いことは、なかった!」
長女から、この言葉がでたのは高校3年生。つまり「母の日」のイベントなどがあるのは幼稚園から小学校低学年からすると、それから10年の時をへていた。(長男は、今だに母親のことは、いっさい口に出さない)
子どもの「心の声」を聴くことがいかに難しいか。
母の日ほど辛いことはなかった。高校3年生で、この言葉を口にしたときの長女の声と顔は明るかった。
後の章で書くけれど、長女は小学校と中学校で、いじめや不登校などを経験したが、高校にはいってから輝いた。その解放感から、この言葉を言える心理状態になれたのかもしれない。
ただ私は、高校3年生になってからのこの言葉には、驚愕した。「えっ・・・・・・」ショックだった。
ひとつには「母親のいない子どもにとっての”母の日”」のことなど、まったくお構いなしに、学校や世間様の行事は進んでいくということ。そして「子どもの”心の声”を聴くことがいかに難しいか」ということを痛感した。
49歳の時に、政治家として初当選
ーーなぜ49歳の時に、政治家へ転身したのでしょうか?
2007年)49歳の時に、初めて自分で「人の役に立ちたい」と思うようになりました。
それからどうやったら人の役に立てるかを考えた時に、今までの経験を振り返ってみると情けない話ですが思いつかなかったんです。
そんな中唯一思いついたのが、政治家という職業でした。
政治家になってから
政治家になってからは徹底的に、「こどもたちの事だけしかやらない」を信念に、学校の施設の改修や通学路の安全などに尽力してきました。
最近は、その辺りが整ってきたので、子供に寄り添って貧困、いじめ、不登校などの問題の対処に力を入れています。
こども食堂の活動について
こもろこども食堂について
長野県の小諸市でこども食堂を立ち上げる事になった時に、幸運な事に市議であった私に声がかかりました。(その時も「こどもたちの事だけしかやらない」を明言していたので)
それからこども食堂を始めるまでには苦労もありましたが、無事に2016年の2月に活動がスタートしました。
みよたこども食堂について
こもろこども食堂は月に一回の頻度だったのですが、私としては子供達がいつでも来られて、大人の満足では終わらない子供主体のこども食堂を作りたいという思いがありました。
それを実現するためには、
・子供達が毎日来てこども食堂を開ける場所を確保する
・子どもについての詳しい知識を持った人がいる
という2つの条件をクリアする必要がありました。
そんな時に、長野県御代田町のNPO法人なからの代表の方と私の考えが一致して2018年の6月にみよたこども食堂がオープンしました。
(NPO法人なからは、こども食堂を始める前から学習塾としての活動も行っていたので既に子供達との繋がりもある状態でした)
こども食堂にかける思い
私自身、シングルファーザーとして子育てを経験して、それは命をかけるくらい大変で”孤立”をものすごく感じました。
でも、親子が孤立を感じていても誰も問題と向き合ってはくれません。
そんな中で現在子育てをしている方の気持ちを、一部であれ私は理解できると思っています。だからこそこども食堂に来る事によって、親はその間だけ子供を預けて自分の時間を過ごす事ができるし、子供は家でも学校でもない第三の居場所を作る事ができる。そんな環境を用意したいと思っています。
こども支援の手段の中でもこども食堂を選んだ理由
大きな理由としては一緒にご飯を作って食べられる事があります。その時間を共有する事によって子供達と向き合えますね。
みよたこども食堂の配膳
みよたこども食堂ではご飯を食べる時に、給食の様に同じ量だけ配膳する事はなく、好きなものは好きなだけ嫌いなものは食べなくてもいいという風にしています。
これは家や学校がダメという事ではなくて、ここでは子供達に自由にして欲しいと思っています。
それから「〜〜しなさい」という様な命令形の言葉も使わない様にしていて、躾や押し付けがましい教育は持ち込みません。
子供達と接する時に気をつけている事
子供達は些細な発言で傷ついてしまう事があります。だから言葉には気をつける様にしています。
ーーこども食堂の目指す姿を教えてください
こども食堂としてどんな子供でも常に来れる場所があって、そこに来た子供達が活動を通して生きる力を育んで欲しいと思っています。
そういう意味だと、今の時点でのみよたこども食堂で実現できているとも感じます。
若者に向けて
今の若者をみて感じる事
こども食堂にはたくさんの中・高・大学生がボランティアに来てくれます。
その子達を見ていて感じるのは、すごく目的意識が高いなという事です。将来やってみたい方向(福祉系、保育系)が決まっていて、既に行動しているのは本当にすごいです。(そういった若者が実際にこども食堂を見学したり体験をして将来のためになっていると思うと嬉しいですね。)
若者から学ぶ事
ボランティアで来てくれた学生が、その日数時間子供と接しただけで私には今まで見せた事のない顔を見せたり、こども食堂の子供達の行動や考え方で見ても私たち大人の想像を常に超えてきます。そこから学ぶ事は多いですね。
ーー最後にこの記事の読者に向けて送る言葉を教えてください
私は教育よりも発育という言葉が好きです。
人は”育てる”のではなく、自分自身で”育っていく”という思いを込めて「育」を送ります!